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緑の谷・赤い谷**

新潟県にかつてあった鉱山と周辺の昭和の記録…と散歩。「旧名 猿と熊のあいだに」

はじめに

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「新潟県新発田市東赤谷」これが私の生れた故郷の住所です。 そこにはかつて日鉄赤谷鉱業所の社宅が存在し2~4世帯入った棟割り長屋が50数棟ありました。また他の施設、関係各社の建物も含め、多い時には700~800人くらいの人々が住んでいたのではないでしょうか。 この社宅群の位置は、ほぼ北東に面していて前に飯豊川(加治川)の流れを見て、背後には山がせまる言わば河岸段丘の上にありました。 ここで私は18歳...

会津街道赤谷宿一里塚

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 上赤谷は旧会津藩である。江戸時代は宿場町として大変に栄えた。そしてそこを通る街道を会津街道と言う。 現在も証の一つとして村外れであった六軒町には一里塚が残っている。かつては二つあったらしいが現在は一つしか無い。こんもりとした塚と石碑が一基立っている。 かつてはそこを通る旅人の為に、日陰として葉の良く生い茂るエノキが植えられ、塚の周囲には急な病に襲われた旅人のために種々の薬草が植えられていたと聞く...

「はつでんしょ」と言う思い出

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 「はつでんしょ」と言う言葉にノスタルジーを感ずる人間は、そうそう居ないのではなかろうか・・・?。  漢字に書けば「発電所」で、何んとも無機質な感じでノスタルジーなんぞ入る余地は無さそうに思うが、山育ちの人間には少なからず懐かしい思い出が残っている。  私の記憶の発電所は飯豊川第一発電所だ。だがその正式名を知ったのは随分と大人になってからで、あの頃は単に「はつでんしょ」と呼んでいた。  今、同郷の...

新発田駅前食堂「三新軒」

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 かつて新発田駅前に三新軒という食堂があった。名前の由来は新潟・新津・新発田のそれぞれの頭文字を取ったものと聞いている。 調べてみると食堂としては営業をしていないものの、現在も新発田三新軒として駅弁を作っているようだ。●昭和40年頃の食堂「新発田三新軒」の内部と従業員の人たち。...

日鉄赤谷鉱山診療所の看護婦さん

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 私が記憶している看護婦さんは5人居ます。うち1人は産婆を兼ねた斉藤コイさんと言う方。後の4人の看護婦さんのうち、お名前の分かるのは吉田さんという看護婦さんで私が一番お世話になった方です。 そして写真の残っているのは御三方、いずれの写真も一緒に写っているのは私の祖母であるトメさんです。そのトメさんの老け方で歴代を推測してください。ちなみにトメさんは、診療所・幼稚園・独身寮・共同浴場などの清掃・賄いを...

日鉄赤谷鉱山診療所を思い出す

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 6月7月と眼の手術から始まって、あちこちの医者通いが忙しい。それにコロナウイルスのワクチン接種が加わり、医療関係の用事でカレンダーへの書き込みが埋まって行くと、もうそれだけで鬱々とした気分になってしまう。 さて、東赤谷の日鉄集落には近隣では一番医療設備の整った診療所があった。それは正に集落の真ん中に位置していた。 ガラスの嵌め込まれた格子戸を開けると狭い土間があり右側に下足棚。正面2、3段上がっ...

保安週間タオル

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 前回載せた写真の中に、タオル(手拭い)を囲んでにこやかに写っている一枚があるのですが、それを見て思い出した事があります。 それは、日鉄赤谷鉱業所では年に一度の保安週間の時期にタオルデザイン、ポスターデザイン、そして標語を募集したという事です。この行事は大人も子供も誰もが応募して良いものでした。私も下手ながら応募したものです。 特にタオルの図案は製品化され配布されるものですから、少し腕に自信のある...

チャンチキおけさの宴

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 興が乗れば必ず出てくる唄は、三波春夫の「チャンチキおけさ」であった。それこそ歌詞にあるように、箸で小皿を叩きながら一同で歌うのである。 呑み所は山深い事でもありますし、勤め先の施設や、地域の集会所や、同僚の自宅内が多かったように思う。 私の父は下戸で酒は全くと言って良いほど駄目であったが、それでも仕事の立場上我が家での宴会は幾度かあった。 鉱夫の仕事は、その職種や番方によって幾組かに別れていて、...

落葉松林と杉林

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 いただいた東赤谷の画像の中に切り出された「カラマツ」の材木があっったのですが、私には「カラマツ」の林があったという記憶が全くないのです。思い出すのは鬱蒼とした杉林ばかりで、暗く陰湿なイメージしかありません。 落葉松と杉・・・同じ針葉樹でありながら、これほど印象の違った木は他にはないかもしれません。もし、あの辺りに落葉松林が広がっていたら、私はもっと詩情あふれる大人になっていたなっていたことでしょ...

2021年東赤谷(日鉄社宅跡)の春_3

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 大正14年(1925)発行の赤谷名所絵葉書にも美田と称された景勝清水から見える飯豊川(加治川)河畔の田圃は、耕す人も無く、年々原野に還りつつあります。 ここからの風景を私は大好きで、野外スケッチの授業があると親しい友と並んで座り絵筆を取ったものです。今でも私のパソコンの背景写真はここからの眺めになっています。 先刻、新潟日報の記事に私の言葉として「観光開発よりも、みんな原野に還れば良い」などと書かれ...