赤谷小学校の焼峰集団登山
焼峰山は赤谷小学校の背後に聳える故郷のシンボルのような山ですから、学校の行事として焼峰登山は古くからあったようです。私も昭和30年代に何年生の頃かは忘れてしまいましたが、先生引率の下に登っています。この山の標高は1085メートルと、それほど高い山ではありませんが、剥き出しの岩場やザレ場があったりしてズック靴の子供には緊張を強いられる場面があります。今は亡き祖母が、どこからどのように手に入れて来たか...
思い出の湯ノ平山荘
湯ノ平山荘には数々の思い出がある。殊に二代目(昭和34年〜昭和49年)の山荘には深い思い入れがある。風の便りにこの山荘が雪崩によって半壊し、解体されて新しく建て直されるという話を聞いた時には、随分と寂しい思いをしたものである。飯豊山には数回登山をしているが、下山口は必ず湯ノ平温泉と決めていた。その理由は何と言っても湯ノ平山荘を朝立てば昼前には生家である我が家に歩き着けたからである。今回、長年心の片隅に...
菅生野(すごうの)、満天の星
故郷を離れてから忘れ去ってしまった事はたくさんあると思うのだけれど、星もその一つだろうなぁ。この辺りでは夜空いっぱいの星を見ることは臨むべくもない。目を凝らして見ても、この年老いた目に映るのはせいぜい数個のみだ。もはや見る気を失ったと云うか、夜空には星があると云うことさえ忘れている。かと言って子供の頃、見えていたはずの満天の星をまじまじと見て感動した記憶もない。それは満天の星があまりに普通の景色だ...
終戦の日に思い立って
大人は誰一人として語ってくれる事はなかった、日鉄赤谷鉱山にも中国からの強制連行者がいたことを・・・。ただ、彼らが収容されていた土地の名前だけが語り残されていた。その土地の名は「華人合宿」という。大人の口からの音として受け取り聴く子供たちは「カジガシュク」と呼んでいた。そこは飯豊川(加治川)と河岸の崖に挟まれた狭い土地で、今考えれば逃亡を抑えるのに適した場所であったと思い当たる。しかし、この「カジガシ...
夏休みはラジオ体操から始まった
夏休みは朝のラジオ体操から始まった。購買所前の広場に50名からの子供が集まる。やがて共同浴場の屋根の上に設けられている大きなスピーカーからラジオ体操の歌が流れてくる。新しい朝が来た 希望の朝だ喜びに胸を開け 大空あおげラジオの声に 健やかな胸をこの香る風に 開けよそれ 一 二 三ラジオたいそう だいいち〜はじめ!!社宅の上へと続く階段の上には先導の上級生・・・、終われば参加の証であるカードにハンコ...