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緑の谷・赤い谷**

新潟県にかつてあった鉱山と周辺の昭和の記録…と散歩。「旧名 猿と熊のあいだに」

はじめに

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「新潟県新発田市東赤谷」これが私の生れた故郷の住所です。 そこにはかつて日鉄赤谷鉱業所の社宅が存在し2~4世帯入った棟割り長屋が50数棟ありました。また他の施設、関係各社の建物も含め、多い時には700~800人くらいの人々が住んでいたのではないでしょうか。 この社宅群の位置は、ほぼ北東に面していて前に飯豊川(加治川)の流れを見て、背後には山がせまる言わば河岸段丘の上にありました。 ここで私は18歳...

私のふる里(地図)

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南北逆ですが・・・。昭和30〜40年代の日鉄赤谷鉱山社宅界隈。 ※クリックで拡大します。...

幼稚園と汽車

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 俺たちが月光仮面や怪傑ハリマオであった頃、幼稚園の裏庭に古い客車が一両置いてあった。 それは赤谷線を走る蒸気機関車の客車に比べれば、本当にちっぽけな車両で車輪も無かったけれども、丸いハンドルの手動ブレーキがあったり、デッキが付いていたり、またそこから屋根に登れたりして小さな月光仮面やハリマオを喜ばせるには充分であった。 その古びた客車は、かつて国鉄東赤谷駅から袖上平の鉄山駅までの間、鉱石を運搬し...

赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_10(飯豊川第一堰堤(ダム))

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 それは社宅の裏山の裾を這うように続いていた。直径3メートルほどの半円の形をした溝である。水が流れているわけでもなく、ただただ凹んだ地形が草木に覆われながらも延びていた。 そこは山トンボの通り道にもなっていて、夏ともなると捕虫網を握った子供達がそこかしこに陣取り、山の上手から現れるトンボを今か今かと待ち構えていたものだった。 私は、その凹んだ地形が何だったのか離郷した後もずっと気になっていて、ちょ...

赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_9(角石原古戦場跡と赤谷線)

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旧国鉄赤谷線には一つだけトンネルがありました。それが角石原トンネルです。蒸気機関車の時代には、このトンネルに差し掛かると慌てて車窓を閉めたものです。かつて戊辰戦争の折には、この地は大変な激戦地になりました。新発田から会津若松に抜ける会津街道は、ここで山と川に挟まれた隘路になります。近くに流れる加治川の支流の境川は、その名の如く新発田藩と会津藩の境界になっており、よって会津藩に属していた旧赤谷村は、...

赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_8(赤谷模範田及び学校林)

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故郷を離れてよりこの方、「学校林」という言葉を耳にしていない。在郷の頃は居住区の一地区の名前になっていたこともあって、日頃常用していた言葉であった。かと言って幼い私どもには「学校林」という意味を深く考える事もなく、単に遊び場の名前として、友達にも親にも「学校林に行く!!」と告げて出かける時に使ったようなものであった。私達の「学校林」と呼ぶ場所は、東赤谷の釜ヶ沢の近くのあったのだが、記憶にあるのは茅...

梅雨の雨音を聞きながら

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梅雨時は心も体もジメジメしていて、物事のやる気がなかなか起きない。何をやるにしても気合が必要である。昭和40年代の初め、新潟には雨がよく降った。加治川の上流にあたる赤谷地区に降る雨は、それこそバケツをひっくり返したような酷い雨だった。雨の一粒一粒が大きく、地面に跳ねる様は、まるで天地が逆になったような有様だった。未だもってあれほど凄い雨に出会ったことはない。最上川・富士川・球磨川を日本三大急流と呼...

50年前の「ふる里山行」_山の友へ

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私の故郷の背後には、その脊梁とも言える飯豊連峰が連なっている。高みに登って見渡してみても山また山で、その向こうに何があるか?などと考えも及ばない程の深い深い山並みが子供の私の瞳に映っているだけだった。そこを逆の福島側から越えて帰郷しようと思いついたのは、上京して間もない頃であったかと思う。田舎出のまだ少年っぽさが抜けきらない者が、人また人の街中に飛び込んで行けば、どのような思いに陥るかはおよそ想像...

紫陽花の見頃になりましたが・・・

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近くの神社の紫陽花が見頃になりましたが、今年はコロナウイルスのせいか観ている人がとても少ないです。...

日鉄赤谷鉱業所発行「赤谷新聞」_4

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●昭和40年6月10日発行 第54号赤谷新聞は以上です。※画像などの無断使用は禁じます。...