fc2ブログ

緑の谷・赤い谷

新潟県にかつてあった鉱山と周辺の昭和の記録…と散歩。「旧名 猿と熊のあいだに」

はじめに

25
「新潟県新発田市東赤谷」これが私の生れた故郷の住所です。 そこにはかつて日鉄赤谷鉱業所の社宅が存在し2~4世帯入った棟割り長屋が50数棟ありました。また他の施設、関係各社の建物も含め、多い時には700~800人くらいの人々が住んでいたのではないでしょうか。 この社宅群は、前面に飯豊川(加治川)の流れを見て、背後には山がせまる言わば河岸段丘の上にありました。 ここで私は18歳の春までを過ごしました。...

比企の寺にて

2
暑くなったり寒くなったりと、家の辺りでウロウロしていると体感だけでは季節を感じられないので、先日人生最後の車として乗り換えたタフトなる車を駆って比企丘陵までドライブに行ってきた。...

赤谷小学校の焼峰集団登山

4
焼峰山は赤谷小学校の背後に聳える故郷のシンボルのような山ですから、学校の行事として焼峰登山は古くからあったようです。私も昭和30年代に何年生の頃かは忘れてしまいましたが、先生引率の下に登っています。この山の標高は1085メートルと、それほど高い山ではありませんが、剥き出しの岩場やザレ場があったりしてズック靴の子供には緊張を強いられる場面があります。今は亡き祖母が、どこからどのように手に入れて来たか...

菅生野、秋のたより

4
今夏、甲子園での高校野球大会では、選手の頭髪は坊主頭が良いだの長髪が良いだのと騒がれていたようだが、故郷の稲刈りが終わった田んぼを見ているうちに、そのような事が頭に浮かんでしまった。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...

思い出の湯ノ平山荘

4
湯ノ平山荘には数々の思い出がある。殊に二代目(昭和34年〜昭和49年)の山荘には深い思い入れがある。風の便りにこの山荘が雪崩によって半壊し、解体されて新しく建て直されるという話を聞いた時には、随分と寂しい思いをしたものである。飯豊山には数回登山をしているが、下山口は必ず湯ノ平温泉と決めていた。その理由は何と言っても湯ノ平山荘を朝立てば昼前には生家である我が家に歩き着けたからである。今回、長年心の片隅に...

飯豊山登山口

3
時折、在所は何処かと聞かれることがある。殊に上京したての頃は多かったような気がする。聞かれれば、とりあえず「新潟です」と答える。そして相手の様子を見ながら「新発田を知っていますか?」と聞く。続けて「新発田でも山の方、飯豊山の登山口の生まれです」と言う。余程の山好きでない限り、話しはその辺りで終わる。ことほど左様に当時の私は飯豊山登山口で生まれ育ったという事は自慢であり誉れだったのである。●赤谷線東...

菅生野(すごうの)、満天の星

4
故郷を離れてから忘れ去ってしまった事はたくさんあると思うのだけれど、星もその一つだろうなぁ。この辺りでは夜空いっぱいの星を見ることは臨むべくもない。目を凝らして見ても、この年老いた目に映るのはせいぜい数個のみだ。もはや見る気を失ったと云うか、夜空には星があると云うことさえ忘れている。かと言って子供の頃、見えていたはずの満天の星をまじまじと見て感動した記憶もない。それは満天の星があまりに普通の景色だ...

終戦の日に思い立って

2
大人は誰一人として語ってくれる事はなかった、日鉄赤谷鉱山にも中国からの強制連行者がいたことを・・・。ただ、彼らが収容されていた土地の名前だけが語り残されていた。その土地の名は「華人合宿」という。大人の口からの音として受け取り聴く子供たちは「カジガシュク」と呼んでいた。そこは飯豊川(加治川)と河岸の崖に挟まれた狭い土地で、今考えれば逃亡を抑えるのに適した場所であったと思い当たる。しかし、この「カジガシ...

夏休みはラジオ体操から始まった

4
夏休みは朝のラジオ体操から始まった。購買所前の広場に50名からの子供が集まる。やがて共同浴場の屋根の上に設けられている大きなスピーカーからラジオ体操の歌が流れてくる。新しい朝が来た 希望の朝だ喜びに胸を開け 大空あおげラジオの声に 健やかな胸をこの香る風に 開けよそれ 一 二 三ラジオたいそう だいいち〜はじめ!!社宅の上へと続く階段の上には先導の上級生・・・、終われば参加の証であるカードにハンコ...

2023夏 菅生野

2
時の移ろいを何をもって感ずるかは人それぞれでしょうが、私は季節季節に送って頂く菅生野の景色でそれを感ずる事が多くなりました。写真の中に暑さを感じたり寒さを感じたり、そうすると皮膚の感覚と共にあの頃の自分も甦ってくるのです。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...