日曹飯豊鉱山 序
私が生まれた東赤谷の日鉄赤谷鉱山社宅集落より、さらに5キロほど飯豊川を遡ったところに加治川治水ダムがある。通常そのダムに水が満々と貯められることはない。降雨時による急激な増水がない限りである。したがってダムの上から下方を見れば、ダム建設以前の地形の面影が所々に残っていて、それをまた感慨深く懐かしそうに見つめる人たちも居る。
かつてダムの周囲には日曹飯豊鉱山の集落があって、そこの多くの人たちが生活を共にしてきた。
昭和41年・42年に起きた加治川下流域の水害は、人的・家屋・田畑などに甚大な被害をもたらした。それ以前にダム建設の計画があったのかどうなのかは知らないが、その昭和42年から8年間を費やして加治川治水ダムは完成した。以後、新発田を中心とした加治川下流域に大きな水害は起きていないはずである。
昭和41年・42年に起きた加治川下流域の水害は、人的・家屋・田畑などに甚大な被害をもたらした。それ以前にダム建設の計画があったのかどうなのかは知らないが、その昭和42年から8年間を費やして加治川治水ダムは完成した。以後、新発田を中心とした加治川下流域に大きな水害は起きていないはずである。
人を水の危険から守るとはいえ、そのために失ったものも大きい。かつて世界一の桜並木と謳われた加治川堤桜もそうであるし、この日曹飯豊鉱山集落もそうである。
鉱山はいずれ時代背景の変化により、閉山の運命が間近に待っているとは言えども早急なダム建設は、また周囲に住まう人々にも早急な別れを否応もなく促したはずである。
この度このブログを通じて、今からおよそ60年前、昭和30年代中頃の日曹飯豊鉱山集落と、その時代を映したフィルムをお借りすることができた。
撮影者は「松岡 勇」さんと言って、日曹飯豊鉱山で働いていた方である。直近の写真であればプライベートの面を考慮して、掲載するのに憚れるものもあるが、私は「松岡 勇」さんが生きてきた半生の証としての意味も含めて、あえて掲載して行きたいと思っている。
撮影地点はできるだけ検証した。それでも判らない所もあるし、間違っている場合もあると思う。もし、このブログをご覧になっていて、ご意見のある方が居られましたら、ぜひコメントをお願い致します。
撮影:浜田 純さん
地図:国土地理院WEB地図
地図:国土地理院WEB地図
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